2011年3月11日に起った東日本大震災は,地震被害のみならず原発災害も引き起こしてしまった.まだすべての事実が明らかになったわけでもないし,余りにも影響が多岐にわたっている.地震が起った時,私は岡崎市の分子科学研究所におり,共同研究の打ち合わせのあと,退職される3教授の記念講演会(最終講議)をコンファレンスホールで聞いていた.そのとき,ゆっくりした波を感じ目眩がしたのかと思った.隣に座っておられた京都大学理学部のM先生がスマートフォンですぐに確認されたところ,東北での大地震であることが分かった.講演は続いたが,次の休憩時間に騒然となった.TVが次々と大地震の様子と津波を映し出したからである.その日は東海道新幹線は運転を停止したので,分子研の共同利用宿舎に急遽宿泊させていただいた.留守宅が気になったが,なかなか連絡がとれない.夜まで,家族はばらばらだったが,子供達は同級生の親御さんに助けていただき,自宅まで送っていただいた.本当に感謝にたえない.妻は自転車を借りて,都内の職場から夜真っ暗の中を携帯電話のナビをたよりに自宅に辿り着いたという.
翌日,早朝の新幹線で,東京まで辿り着き,ようやく動き始めた山手線で上野へ.上野駅のコンコースは物凄い人でごった返していた.どこが常磐線の列なのか分からないが,人の流れに乗りなんとか常磐線の列車に乗り込むことができた.しかし,150%以上の乗車率の状態で1時間以上発車せず,気分が悪くなる人が続出した.出発しても速度はたいへん遅い.昼過ぎにJR柏駅に到着.幸い東武バスは動いており,自宅に午後3時頃ようやくたどり着けた.
下の写真は物性研究所6階の図書室の様子である.緑表紙の製本したPhys.
Rev.が本棚からほとんど落下している.昔のように床に座って文献に熱中していたら,製本雑誌に埋もれたかも知れない.
実はそれからが災難であったことは,報道の通りである(まだ良く分からないこともあるが).原発が実はメルトダウンしていたころ,約20年前にポスドクをしていたときのYates教授から,「すぐ逃げて,家族でこちらにしばらく滞在せよ」とのメールがきた.国内では情報が錯綜しており正確な判断が難しい状況だったが,アメリカでは冷静に判断が行われていたらしい.「こちらは大丈夫だ」などというのんきな返事をその時は書いた.ところが,3月21日の朝から午後に,茨城県から千葉県東葛飾地域に大雨が降った.丁度,原発からのプルームが気流に乗ってこの地域に流れてきた.そしてプルームの中の放射性物質が雨により地上に降り注いだのである.その後,東京大学柏キャンパスや国立がんセンター東病院などによる空間放射線量測定から,この地域がホットスポットになっているということが分かったのだが.....その結果が1年半後の除染である.
削り取った表層土をつめた黒い袋が奥に見える(左の写真:2012/9/30撮影).除染作業後の空間放射線量はずいぶん減少しているのがわかる(右の写真).近隣の公園や公立学校の除染作業は今でも続いている.
朝日新聞夕刊のニッポン人脈記は面白い連載記事であり,現在は「素粒子の狩人」というシリーズが続いている.このシリーズは昨年3人の日本人がノーベル物理学賞を受賞したことが下地となっている.シリーズ第2回目では「イチゴの味? チョコの味?」と題して,東大・数物連携宇宙研究機構(IPMU)の村山さんにスポットを当てた記事であった.その中に,懐かしい名前を見つけて少々感動した.京都大学理学部1~2回生で同じクラス(1980年入学のS6)だった大栗博司さん(カリフォルニア工科大学=CALTEC H 教授)がその人である.当時,京大理学部の入学定員は281人であったが,それは1人の天才+280人の凡才であり,彼がその一人であるとよく仲間で話をしたものだ.実際,「彼が物理に行くから」という理由で,3回生からの専門分野を化学や生物にした人が何人かいる.昨年,京大理で集中講議をしたあと,人文研所属(生命科学研究科兼任)で科学コミュニケーション論・生命倫理が専門の加藤和人准教授の研究室に立ち寄ったときも,その話で盛り上がった(加藤さんもS6だった).私がピッツバーグ大学でポスドクをしていた時,大栗さんはすでにシカゴ大学の助教授をされており(一度シカゴを訪ねたときお世話になった),その後,京大数理研,カリフォルニア大バークレー校を経て,現在CALTECHに在籍.昨年はLeonard Eisenbud Prize for Mathematics and PhysicsおよびHumboldt Research Awardと続けて国際的な賞を受賞された.大栗さんは東大IPMUの主任研究員でもある.IPMUの建物は柏キャンパスの物性研と宇宙線研の間に現在建設中である.
春,京都にて(2009/4/7)
先日,京都大学で打ち合わせがあった.京都は桜が見ごろで入学式前の春休みで観光客でごったがえしている.京都駅から206番バスに乗るのだがここでも長い列である.
京大近辺は大学院を卒業したころ(1989年)からあまり変わっていない.もちろん京大構内の教室は順次建て替えられており研究環境は昔と雲泥の差だが,良く行った古本屋や飲食店はまだいくつか健在である.たとえば「アリスの落ちた穴の底」で知られる飛鳥井町のバー(?)は昨年50周年を迎え今も営業している.店内のデコレーションがポップアート風だが,人民帽のマスターに話を聞くと京都造形芸大の学生さんがアルバイトに来ているらしい.
私の所属していたサークル(山歩き)はまだ続いているようで,東大路通沿いに立看(たてかん)を見つけた.
西部構内にある部室を訪れようと思ったが,新歓の準備で学生さんが忙しそうにしていたので入らずに帰ってきた(昔も今もきたない).夕方時計台一階にできたレストランで食事をしたが,リーズナブルな価格でなかなか美味しい.系列のお店が東大駒場にもあるという.帰りに時計台前の正門を通ると,京大らしい立看板あり.
季節や行事にあわせて吉田神社参道(一条通)や百万遍の石垣には立看板がずらりと並ぶ.百万遍角の石垣は数年前に撤去の計画があったが,学生と京大当局との話し合いの結果,解決したという(石垣あっての立看板).上記の件も,京大らしい落とし所はあるのだろうか?